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どれくらいだったろう。深い眠りの中で、揺りかごを揺さぶられているような感覚がふと全身の神経を伝ってゆく。一瞬浮いたかと思うと、次の瞬間には沈殿している。まるで紅茶の茶葉のように、液体を浮遊する、そんな感覚が意識を満たしてゆく。あぁ、そろそろ起きなければ、と脳が優しく語りかける。 「おはよう」 目を開くと天井のタペストリーがドアの風を受けて揺らめいていた。 「はやく支度しないと、会社遅れちゃうよ?」 だるい身体を気合いに任せて動かそうと寝返りを打って横になると、すでに彼女はスーツ姿に着替えて化粧を始めていた。 「あと・・・何分?」 「もう15分。」 ・・・げ、やばい。 相変わらずパルコの前は肩に重りが入ったサラリーマンばかりだ。これから戦闘だってのに毎日よくあんな瘴気で電車に乗り込めるな。弾幕シューティングのプロゲーマーになった気分でかわし、改札にタッチする。30秒。まだ間に合いそうだ。つま先立ちできればこっちのもんだ。幸い、電車は来ていない。 デジタル音が鳴って、電車が来る。今日に限ってなんでこんなに人が乗ってやがるんだ。皆が皆こうも律儀に並んでいると、乗るドアを今更変えることもできやしない。ドアが開く前に深呼吸をして、そのフレッシュな空気を身体に取り込んだまま3度は高い電車の奥深くに攻め込んでゆく。 電車が揺れるたび、肩に重力がかかる。ゼミの教科書が入っているせいで、トートバッグの重さが普段の2倍はある。iPodから流れてくる音楽がいつもの「歌ってみた」の歌い手さんのイントロが流れてきたタイミングで車掌のダミ声に阻まれる。いつの間にか、電車は御茶ノ水に着いていた。 夜からの雨が嘘のような晴天だった。ビルから吹き下ろす風はまだ冷たかったが、徐々に半年ぶりの暖かさを取り戻しつつあるようだ。歩速を緩めて横断歩道に差し掛かると、携帯が鳴った。『ゼミ、頑張ってねp(^-^)q』横断歩道の向こう側の校舎を仰ぎ見て、ふと一年前を思い出した。 柄にもなく、一週間考えて打った140文字のメール。俺もまあ何てクサイ台詞を並べられるようになったものかと後になって彼女から携帯を見せられて数回は悶絶した記憶がある。 自分の気持ちをこのままずっと押し込めておきたくないから、今伝えるね。好きです。話をするたび、会うたび、玲のこと好きになって、気づいたらずっと考えるようになって…なんか唐突でごめんなさい。しばらく会えなくなることを考えたら、早く伝えなきゃって思ってたんだけど、結局今になっちゃった。 よく考えたら文章支離滅裂だし。丁寧なのとフランクなのとごちゃ混ぜだし。っていうか付き合う前から玲って呼び捨てかよ。もうだめだ江戸川に沈みたい。こんなの送って俺ってなんて阿呆なんだこんなことになるなら国語ちゃんと勉強しておけばよかった。大久保先生もっと厳しく教えてくれたらよかった。 「がんばる><お仕事がんばって!」とメールを返す。いつものことながら、メールを送信するボタンを押すときが一番緊張する。何か変なこと送っていないか、間違った人に送っていないか、心配になる。どこかのサイトで父親に送ってしまっただの、誤変換で腹筋が崩壊しただのを読んでしまったからだ。 ゼミはつつがなく進行した。髪ボサボサのD2は今日も帰ってないようだったし、B3はエントリーシートがどうこうで欠席していたので、教授を含めて5人しかいなかった。自分の発表の番じゃなかったので、話は適当に聞きつつ考え事をしていた。 昔からの考え癖は治るどころかエスカレートしている。根っからの心配症との相乗効果で時折ものすごく不安に駆られることがある。考えることと言えば、あと3秒で地球が爆発したらとか、あと1日しか寿命がなかったらとか、確率の低いものばかりだ。シャープペンシルを回しながら時間をやり過ごす。 ゼミが終わり、デスクに人が戻ってゆく。院生になってからというもの、どうも時間の使い方というのがよく分からない。D2のボサボサ頭のように研究漬けになるべきなのか、就職活動を終えたM2のように世界中をチャリで回る自分探しの旅に出ればいいのか、部屋に引きこもってゲーム三昧がいいのか。 適当に課題を終わらせてスターバックスにキャラメルマキアートを摂りに行くと、髪を茜色に染めて奇抜なファッションに身を包み、ギターを傍らに置いて女子高生らしき制服を着た女性と恐らくキャラメルフラペチーノであろうものを飲んでる奴が目に入った。けっ、リア充が。俺は心の中で言葉を飲んだ。 人間というのは現状に満足すると退屈に感じる生き物らしい。そこそこの大学院に入って、バイトしてるから金には困ってないし、彼女もいるし、サークルだって未だに活動してる。そのくせ、何故リア充爆発しろ、と感じるのだろうか。自分にないものを持っているからか?自分より充実してそうだからか? そして俺は(時間的な制約もあってか)ひとつの結論に辿り着いた。リア充というのは非実在のものであって、絶対評価でのリア充は存在しない。自分がある人をリア充だと感じたとしても、そいつが他者をリア充だと感じればそいつも自分自身を非リアと認識するため、絶対的なリア充ではなくなるのだ。 かくしてリア充の存在を撲滅したところで、スターバックスを後にした。夕暮れ時の空は新宿を薄い桜色のマニキュアのような色に染め、秋葉原を藍色に染めていた。堀に掛かる橋の向こうから弾幕がやってくる。毎日毎日お勤めご苦労さんなことで。 俺は将来この弾幕の一味になるのが本当に厭だ。何が悲しくて毎日何時間も電車に押し込まれ、聞きたくもない話に辻褄を合わせ、下げたくもない頭を下げ、意味のない会議に駆り出されては居眠りもできず、夜でさえ自分を出すことなく酒に溺れた奴らのお守りをしなきゃならないってんだ。それも数十年。 「久しぶり」 振り向くと見慣れた顔があった。 「おう、久しぶり。ちゃんと学校来てんのか」 「あったり前でしょ!?過去の自分とは違うんですー。今は今の生き方ってのを謳歌してんだもん!ステレオタイプに押し込めてんじゃねぇっつうのー」 「その返しこそ昔のままじゃねぇか」 「…ぐ、ぐぬぬっ」 袖をつまんで腕時計を見ると、確かに5限が終わったくらいだった。昔とは違う生き方…か。あの弾幕連中も「昔は良かった」とか嘆いてたりするもんな。理解はできないけど。俺は昔とは違った生き方、できてんのかな。人生謳歌してんのかな。 「あーあ、つっかれたぁー」 「生命倫理?」 「ざんねーん!計量経済学ー」 「へぇ、凛花って数学できるんだ」 「選択必修だから取ってんのよー?無理してコマ入れちゃったからテストが心配ー」 「はぁ、まぁ2回生の科目だしなあ」 「ひっどーい!それは言わない約束!」 「約束したっけ?」 「…ぐぬぬっ…」 元同級生だった凛花と別れたのは2年前。出会った当初は今とは比べ物にならないほど病んでいた(理由は今でも教えてくれない)。学校にも来ず、ある日突然実家を抜け出し公園で一夜を明かしたらしい。意識が定まらないままに歩き、電車に乗り、気づいたら横須賀に居た。そんな女の子だった。 俺は何で凛花と付き合うことになったのか思い出してみることにした。本人の眼前で思い出すのは恥ずかしいが、映像が目の前にある分、思い出しやすかった。他愛もない雑談を右から左に通過していく回路とは別に、頭の中ではメモリから読み出す処理が行われていく。不思議なことに記憶は逆順から蘇る。 別れた理由は凛花に他に好きな男が出来たからで、もともとのきっかけは「あたし、音楽がやりたい!」ってイスラ(iSuLA)ってバンドに飛び込んでいったのが始まりだった。凛花の現在の彼氏が、このバンドのギターのロン毛半ズボンの…名前は…そうだ、ショタ朗だ。本名が翔太朗って言うのにバンドでSHOTA-ROWって名乗ってたからショタ朗って名で呼ばれてたんだよな。あまりにもショタショタ言われ過ぎててライブで「俺はショタじゃねぇええぇ」って叫んだのはいいけど結局あれは逆効果だったんだよな。 音楽をやり始める前の凛花とは喧嘩もしたし、落ち込んでる時に傷を舐め合うようにして身体を重ねたこともあった。そうすることでどちらの心も折れずにいられるのなら、そうしていた。俺が凛花にしてあげられることは、なんでもするって言った。何故だろう、あの時は純粋に凛花を心から愛でていた。凛花に告白したのも俺だった。1回生の冬、たまたま講義に出てた凛花に話があるって言って連れ出したんだよな。セリフはハッキリとは覚えてないけど、学食でカフェで部室でと場所を変え結局半日くらいは話してた気がする。凛花が好きという欲求より、凛花を知りたいという欲求のほうが強かったんだ。 何で気になったかと言うのは、夏休みの前にフレセミで凛花と一対一で話す機会があったからだ。今思うと馬鹿なこと訊いたなと後悔するばかりだが、「休みがちっぽいけど、身体とか、調子悪いの?」と話かけたことが全てのきっかけだったのだろう。多くを語らぬその目線の先にあるものを見てみたかった。今でこそ凛花はこうして普通に誰でも明るく接してくれるけれども、背後にうっすら残る凛花の影の部分は俺しかきっと見えていないんだろう。別れて2年が経っても、その影がより薄くなることはなかった。 「そういえばさぁ」 凛花の声が突然、脳髄の奥を弾け飛ぶように"考える"神経伝達物質を妨げた。 「何?」 俺は落ち着く余裕欲しさに言葉を発した。 「レイコとは"まだ"続いてんの?」 的確な質問だ。あぁ、"まだ"続いてるさ。凛花の言葉に裏があることくらい、元彼である俺からしてみれば百も承知だ。しっかし、この"まだ"は意外と破壊力がある。守備力を255下げる呪文を唱えられたみたいだ。 「うん」 俺は事実だけを述べた。 「"まだ"なのね」 さっきの"まだ"とは意味が違うことを悟った。凛花は俺と彼女がどういった関係にあるのか瞬時に理解したようだった。そして、自分では考えもつかなかったこと…正確に言えば自分の中に押し込めて決して外に出さないことを平然と言ってのける。 現状維持を「伸び悩み」と取るか、「成長していない」と取るかで印象は変わってくるが、とかくこの手の恋愛話は後者を印象づけることが多い気がする。だから"まだ"だし、"まだ"なんだと思う。凛花は俺とヨリを戻そうという気は無く、かといって興味本位で人の交際関係を訊いてるわけでもない。 「ただいま」 誰もいないと分かっていながら空に向かって発音し、真っ暗な部屋に電気を灯す。脱ぎ捨ててあった俺のスウェットがフローリングの床に温度を奪われひんやりとしていた。その抜け殻を拾い上げ、洗濯カゴに放り投げる。外した。ゼミの教科書をトートバッグに入れていたせいで加減を誤った。 もしも人生という物語の中にセーブポイントがあったらどれだけやり直すだろう。もしも自分が完璧な人間だったらどんな考えのもとで生きるのだろう。もしも万能で天才ならどんなことを考えつくだろう。もしも自分の容姿が非の打ち所のない世代を越えて支持されるイケメンだったらどんな恋をするだろう。 今の自分は、学生でありながら、主夫だ。家賃や生活費などは折半しているが、帰りの遅い家主(名義上)のために家事は俺がすることになっている。おかげで、学生にしては規則正しい生活を送っているように思えるのだが、この状態がいつまで続くかというのは自分自身もよく解らないし、解りたくない。同い年でありながらすでに社会に出ていて、営業成績は同期中トップ。本部からもらった表彰状が彼女のデスクの傍に飾られている。俺はぼんやりとそれを眺めながら凛花の"まだ"を反芻する。部屋の蛍光灯に付けられたアヒルのマスコット人形が視界をゆらゆらと遮る。俺は一人、この部屋に居る。 シュウカツとか、よくわからない。学部の時の同期は確かにシュウカツで忙しくやっていたし、今の4回生もゼミを休んでシュウカツしている。シュウカツを一回やっておけばよかったのだろうか、残念ながら俺にはその大変さも、内容も、やることも、実経験がないからわからないのだ。 布団に包まって意識が飛びかけたとき、部屋のドアが開いた。彼女はヒールを玄関に片方ずつ律儀に置き、営業で着慣れたパンツスーツの裾を直して居間に上がりこんできた。蛍光灯のアヒルが揺れて小玉の電球が灯る。 「あっ、起きてたんだ。ごめんね寝てたのに」 「いや、いいんだ」 全然良くない。 俺は、自分で考えていることが自分でもよくわからなかったが、時計の短針が12という数字の2の右端からギリギリ離れない程度の位置にあったのを確認して、一息ついた。 「ごめんね、今日も遅くなって」 彼女はブラウスの襟に空気を入れようとボタンをひとつ外し、フローリングの床に座り込む。 「またオッサンのとこ?」 「そーなの!技術二部の主任と二人で乗り込んだんだけどクライアントのオッサンが超意味不明なの!仕様通りに上げろと言ったくせに操作性が悪いとか、要件確認投げて承認まで得てるとこに今更いちゃもんつけてくるの!もう主任と頭下げて持ち帰ろうかって話になったのよねー」 違う。俺が欲しいのはそんな言葉じゃない。オッサンの話なんか3夜連続放送で聞いてる。興味のわかない連ドラを強制的に見せられている気分になる。やれ上司だ技術部の主任はどうだっていい。俺はいつまでこんな生活を続ければいいんだ?喉から出かかって、結局出ない。彼女の言葉は続いた。 「結局今日も手打ちで帰ってきたの。明日こそやっつけてやろう!って技術二部の主任がめっちゃ気合入れてて超受けた!」 「メシは?」 聞くに耐えなくて間髪入れずにインターセプトしてやった。 「あっ、食べてきたの。途中のモモイチで」 どうやら、俺の特製肉じゃがはまたも明日の俺の弁当になりそうだ。 彼女は化粧を落としシャワーを浴びてストレッチをして寝るが、その一連の間に俺は寝落ちるのが日課になっている。2部屋の物件を借りているわけではないから、1つのベッドで寝ざるを得ない。今日も寝てる間にガサゴソと布団がめくられ、湯冷めしかけた身体が入ってきた感覚を最後に夢へと旅立った。 朝が来て机を見ると書き置きがあった。髪も直さず細い目のまま机上に目を落とす。「ごめん!6時にメールが入って急ぎで出社することになっちゃった(>_<) 行ってくるね☆」時計の短針は7を指していた。俺は髪をくしゃくしゃに掻きながらベッドの端に潜り、20分間の延長戦(二度寝)に入った。 カーテンを開けて部屋に日光を採り入れる。冷蔵庫にしまった特製肉じゃがを弁当箱に詰めていると、ラジオから懐かしいメロディが聞こえてきた。曲名はど忘れしてしまったが、歌詞は思い出せる。喧嘩もしたけど一緒になれてよかったとか、そういう歌詞だった気がする。そう言えば、喧嘩すらしてないな。 ときめきとは何だったのかを、ふと考えることがある。街にはカップルがあふれ、思い思いに手を繋ぎ、笑顔で会話し合い、他人には踏み込めないテリトリーまで接近し合っている。初々しさがときめきなら、ときめき続けるのはほぼ不可能だ。相手を素敵と思う気持ちだと言うのなら、どうだろうか。確かに、相手は素敵かもしれない。容姿は申し分無いし、寧ろ自分がもっとしっかりしなければならないと感じている。社会的にも問題がある身分でも無いし、寧ろ自分が学生としてしっかり勉強しなければ釣り合うまい。考えれば考えるほど、自分の方に問題があるのではないかと思えてくる。 相手を素敵と思う気持ちが足りない。だからときめかない。だからときめきを得るために自分を変えてもっと好きになろう。何だかそう考えるのは自家栽培で自家消費している気がしてならないのだ。相手を素敵と思う気持ちを満たすための方程式の解を求める方法が、今の自分にはわからないのだ。 惰性走行するだけの列車はレールの上に沿ってどこへ向かっていくのだろう。春の麦畑を駆け抜け、夏祭りの花火の下を走り、秋の日の稲穂の波に乗り、冬の凛とした夜空の闇を抜けた。そしてひとつの季節がまためぐって、春がやってきた。あっという間の一年。同じ風景を素敵と思えない自分がそこにいた。 雨の足音が近づいていた。天から垂れ下がる雲の帯が今にも破れそうに小学校通りのコントラストを薄くしている。子供たちは色とりどりの傘を持ち、一様に黄色く覆われたランドセルを背負い、昨日のアニメの話などで盛り上がりながら登校する。俺は横断歩道で彼らとすれ違い、大学へと向かった。研究室にはいつもの面々しか居なかった。相変わらずのD2がディスプレイに向かって唸っているが彼が何を思って唸っているのか、何がそこまで彼を苦しめているのか知る由も無い。頭を掻きむしる度に無秩序な髪が無法地帯のようになる。そろそろ気分転換に風呂でも…と言える雰囲気には到底なれない。 腹の虫が暴動を起こし始めたので遅めの昼食にと研究室を出て近くのラーメン屋に向かった。横断歩道の向こうから歩いてくる人影の中に、見慣れたお下げ髪のスーツ姿の女と見慣れない髪を立てて一足早いクールビズのように胸元を開けたスーツ姿の男がお互い笑顔に話をしながら歩く姿を認めた。 間違いはなかった。彼女のレーダーに入らないように横断歩道の端を弾幕に混じってスクランブルモードのステルス航行で渡る。幸い今日の私服も見られていないので、気づかれる理由は何もなかった。あるとすれば、この付近が俺の通う大学周辺であることだけだ。俺は暴動を起こす腹に一時休戦を申し出た。 シナプスが通常の思考回路を繋いでくれれば、彼女らは恐らく営業の帰りで今日朝一番からのクライアントのおっさんを口説き落とすために技術部の主任(チャラい)を連れてこの通りを歩いていたことになる。しかし、俺の捻くれた一部のシナプスがグリップを誤り不可侵領域に迷い込んだようだった。踵を返してスーツ姿の影を追う。今の自分はストーカーではない。探偵だ。確固たる証拠を掴むための素行調査だ。素行調査の何が悪かろうか。もし自分が何らかの罪で捕まるようなことがあるとしたら、世界中の探偵を逮捕するといい。他人ではない人を尾行するのにストーカーと呼ばれる筋合いはない。 御茶ノ水駅まで気付かれることなく尾行した俺は、電車に乗る二人の影を追った。到着した電車から弾幕が溢れ出てきて中央線のホームがボス戦の様相を呈してきた。目線で二人を追う。あと10メートル先、足場を選び、体を傾け、手を縦横に動かし、間合いを詰める。髪型を目線で捉えた瞬間、被弾した。 「ったく!どこに目ェ付けてんだ!!」 低く曇った声でも雑踏を切るくらいはあるらしい。半径5メートル以内の視線がこちらに向く。一瞬、彼女と目が合う。 「すいません!」 咄嗟に出た声が一段と大きく、周囲に俺を印象づける。 「気ィつけろや!ボケ!!」 弾幕のくせに若い奴には虚勢を張りやがる。 弾幕のくせに、捨て駒のくせに、と営業成績が悪かった八つ当たりが兼ねられていたであろう叱責に耐え、汚れ役になってやった俺は俺自身を褒め称えた。そうしなければ、自分自身を保っていられなかった。目線の先にあった彼女はすでにホームから発車した電車で東京方面に男と二人で旅立っていった。 俺は何をしているんだ。彼女とあいつが仕事以外で何の関係があろうか。彼女は毎日遅くまで働き、休日は俺が研究室に行かなければいつも二人でいるのに。冷静に考えれば考えるほど、自分の神経構造が憎らしくなる。だが、自分の中に湧き上がる得体の知れない彼女への不信感が消えることはなかった。 Suica定期券は同じ駅で降りられない。駅員を説得するのは面倒だし次のコマも講義はなかったので腹の虫を納得させるためにも俺は秋葉原へ向かった。ふと携帯電話を開くと見慣れた名前からのメールがあったので返信とともに秋葉原の喫茶店での待ち合わせを提案した。程なくして、OKの返事が来た。ひと駅違うだけで雑踏の色はがらりと変わる。秋葉原の空は薄雲がかかり白い光が照らしていた。メイドのチラシ配りを横目に喫茶店に向かう。昼下がりとはいえ、秋葉原随一のコンセントが使える喫茶店とあって店内は相変わらず繁盛していた。学生のような人、営業の合間に仕事する人、暇そうなカップル。そんな雰囲気に混じって、淀んだ喉をハニージンジャーエールで潤す。しっとりと流れてゆく液体の感覚に炭酸の気泡が適度に喉を刺激し、淀んだ箇所を通り過ぎてゆく。程なくして凛花がやって来た。目を合わせるや否や俺は小さく手招きして向かい側に座らせた。遅いランチにロコモコとも考えたがやめた。 「珍しいじゃん、このカフェに誘うなんて」 凛花が髪の先をクルクルと巻いて話す。 「なんとなく、御茶ノ水だと落ち着かなくて」 俺は言い訳ともとれる発言をした。 「落ち着かない…ねぇ。いつもはマックとかだったのに」 確かに秋葉原に用がある時しかこのカフェはデートでも使わなかった。 凛花の発言の節々を気にしてしまう。やはり気が張っているのか、思うように話せず、言葉に何やら含みがあるような発言しか出来なくなっている。俺の言葉尻を捉えて凛花はどう思っているのだろうか、それはわからない。ただ、こうして次に議題となるべき点は分かっていたし、変えることもできなかった。 「なんでまた別れないのさ」 凛花の言葉は意外にも否定だった。そしてその一言はあまりに俺に対して的確で、正論で、それゆえ残酷であった。別れることに対して意識的に遠ざけていたのかもしれないが、俺自身が二人の関係に真剣に向き合ってないことを他人に指摘されたことが何よりショックだった。 歯切れの悪い答弁しか出てこない。きっと支持率が低迷している国の首相とやらもこんな気持ちなんだろうと余計なことばかりに気を取られてしまう。俺は凛花に対しても誠意を持って話ができないのか。淀んだ気分を紛らわそうと藁をも掴むような状況で凛花と話をしたいと願い出たのではなかったか。しかし、自分には自信が無い。相手は非の打ち所が無いほど、自分とは不釣り合いなほどに、相手を攻め崩す場所なんてなかった。そんな人を相手取って別れ話など誰ができようか、もし円満に別れることができたとして、次にできる彼女をこの人と比較してしまわないだろうか。その自信が俺には無いのだ。 「なぁ・・・別れるって何だ?」 俺は消え入るような声しか出せなかった。喫茶店のノイズに混じって語尾がかすんで消えてゆく。凛花は背筋を伸ばしたまま「想いを思い出に変えて、胸の奥にしまうこと」と動物へ人間の言葉をかけるように言った。俺はその言葉を頭ん中で何度も何度も繰り返し反響させた。 凛花は次の時限があるので先に席を立った。凛花との思い出を後ろ姿に重ねてみたが、ビルの谷間から射す光の影にも満たないような小さなものになってゆく。自分だけが時を止めて、未来に生きていないことを思い知ったわけだ。後ろは振り返るな、前だけを見ていかなければ。俺は覚悟したつもりだった。 同棲してしばらく経つが、最近は専ら家事は俺がやっている。お揃いの食器すらなく、冷蔵庫の棚まで別々に管理されている。今日もどうせ遅いんだろう、いつどうやって別れ話を切り出そうかと思案に更けっているうちに家に着いた。西の空にぽっかり浮かんだ雲に、光と影がうっすらと混ざって見えた。 |